2012年5月7日月曜日

Xavier High School (ザビエル高等学校)

2012年5月5日(土)

この週末、チュークに赴任してからずっと行きたいと思っていた
「ザビエル高等学校」に行ってきました。

山道を揺れに揺れながらたどりついたザビエル高等学校!!


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<ザビエル高等学校>

イエズス会の運営するザビエル高等学校は1953年にミクロネシアにできた最初の4年制高等学校。教育水準は高く、ミクロネシアの他州のみならずマーシャル諸島・パラオからも入学者がいる。今までに多くの政府要人を輩出してきている。

建物は第二次世界大戦中に馬淵建設(旧馬淵組)が建設したもので、旧日本軍の通信センターとして使われていた。要塞のように頑丈な建物は連合軍の爆撃にも耐え、生き残り、ザビエル高等学校として生まれ変わる。老朽化が進んでいたが、2008年に馬淵建設の無償改修工事を経て、現在のきれいな校舎となった。

高台に位置するザビエル高等学校からの眺めは100万ドルの景色と言われている。

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ミクロネシア連随一のエリート高等学校
100万ドルの景色



校舎内では英語ONLY 唯一彼らが母国語(母修語)を話せるのは
各国/州の 小屋の中だけ。
教室:休日にも関わらず自習する生徒が。志高し!!

卒業生の名前が廊下に飾られている。
難関試験を突破して入学できても4年間で卒業するのはさらに至難の業。
銃弾の跡が残る壁


終戦直後(旧日本軍の通信センター)
馬淵建設無償改修工事後のザビエル高等学校
二階への階段を上るところに描かれれている絵 
足を止めずにはいられない

爆撃の跡の残る天井
爆撃の跡が残る天井の同じフロアにあるバスケットゴールと落書き
しめつけられた心が なにやらほっと和んだ


いつも生徒のお世話をしているスタッフに感謝を伝えるパティーを生徒たちが開催中
もしやこれは??
そう!!椅子取りゲーム!!
にしても音楽が長い長い。

日本との関わりが本当に深いチューク
たくさんの日系人が暮らし
日本の名字を毎日耳にし
今でも使われている日本語があり
「日本」という国を身近に感じながら生活をしている
そして本当に嬉しいことにありがたいことに
「親日」という事を常に感じながら生活をさせてもらっている。

ザビエル高等学校のみならずチュークには戦争の跡がたくさん残っている
それがチュークと日本との関わりでもある。
そのことを忘れてはいけないと感じた1日だった。
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5 件のコメント:

  1. ウエノ島で日本軍はめっちゃ戦争したんでしょ?その時に島の人に嫌がらせ的な事はしなかったのかな?戦争によくありがちな。
    親日家が多い島ということは、戦争中に親交があったのだろうか?
    なんて無知なコメント(笑)
    でも疑問なの( ´艸`)

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    1. yukko> 戦争の前から日本人はチュークに(チュークだけじゃないけど)入って生活をしてたんだよね。だから日系人がすごく多い。そして戦争になって連合国軍に攻撃された。戦争の時の話を聞く機会はなかなかないけれど、色々な意見があって話す人によって異なると思うんだけど・・・・その時の日本人の言動(兵隊さんも含め)讃えてくれているという文章を読んだときは嬉しかったです。もじ時間あったら『「冒険ダン吉」になった男 森小弁』読んでみて。チュークと日本との関わりを知るヒントになると思う。

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    2. 綺麗な海ばかりに見とれてると、すごく平和なところに感じてしまうけど、忘れてはいけない暗い歴史もありなんだね。とても日本は身近な国だね。よーこ隊員!ブログ頑張って続けてください!
      またのぞきにきます。

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    3. みち>穏やかな時間・優しい人・綺麗な海そしてさまざまな過去。チュークの色々な面を感じながら生活していきたいと思います。のぞきに来てください!!

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  2. 私は1970年代の終わりごろ、当時まだ日本語ではトラック諸島と言っていたころチュークのモエン島(春島)デュプロン島(夏島)を訪れました。ちょうど終戦と現在の中間ぐらいの時点です。私は現在カンボジアの大学で日本語教師を7年間しています。それ以前(定年前の現役)は日本の公立学校の国語と英語の教師でした。大学の教師になりたかったので教員をしながら大学院へ通い、定年後に外国の大学で日本語を教える夢をかなえました。もう67歳ですが、もちろん戦後生まれです。なぜ、1970年代にそんなところへ行きたかったかというと、当時はまだ日本統治時代の影響で、日本語を話す人が結構いました。日本語教育にはもともと関心があったのです。実際に行ってみると、戦後もう40年近くたっていましたが、それは想像したより若い人まで話せるのです。よく考えてみると、当時昭和20年ごろ、子どもだった人の方が日本統治下の学校で日本語を学ぶので発音もよく、ネイティブスピーカーのように話せるのだ、ということが分かりました。当時はまだ、スペイン語・ドイツ語を話せる人もおり、日本語と英語と母語を加えると5か国語が解る人もいました。多くのトラック語が日本語から作られていてとても面白い発見ができました。
     そのように語学に興味があったので、1970年代の終わりに行ったのですが、今、JICAのボランティアがザビエル高校で日本語を教えているはずです。で、私はシニアボランティアに応募しようとしたら、もう要請がなくなっていました。今どうなっているのでしょうか。
     もう一度行ってみたいです。そしてザビエル高校で日本語を教えたいのですが、だれかコンタクトはとれませんか?
    余談ですが、ミクロネシアのカトリックに影響を受け?(もともとなりたかったのですが)カトリック信者に1980年の誕生日になりました。日本語では霊父と言われるカトリックの洗礼をしてくれた神父さんは、言語学者で日本語の専門家としてとても著名な方で、上智大学の教授もしていた、故W.A.グロータース神父様です。その方はベルギー人の神父で日本の戦争をいろいろな面から体験した人です。
    チュークのザビエル高校について何かコンタクトがとれる方法をご存知でしたら教えてください。メールアドレスはpaula53m@yahoo.co.jp です。

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