朝日新聞の宮地記者と関口カメラマンと過ごさせていただいた
なんとも素敵な時間の後半部分をちょぴっとご紹介♪
※【前半】は下記お読みください♡
可愛いチュークのちびっ子がたくさんです♪
”ザビエル高校⇒灯台⇒トナチャウ山”というハードな日程では
到底足りなかったザビエル高校での時間。
といことで再度ザビエル高校へ
「HOME OF THE NAVIGATORS」という
なんとも立派な門をくぐって入るザビエル高校には
素晴らしい資料館があるんです!
(生徒はFSM パラオ マーシャルから選ばれし少数精鋭)
戦前・戦時中・戦後のミクロネシア地域の写真をファイリングした沢山のファイル。
何時間見ていても飽きません。
そのほとんどはMICRONESIAN SEMINARからきています。
【神父さんと司書の女性】 ”この時のこの資料は・・・”という問いかけにすぐに答えてくれるお二人。 プロフェッショナルです。 そして・・・・関口カメラマンのRQにもノリノリ♡ |
素晴らしい神父さんにお会いして、
興奮気味の私達が次に向かったのは
”リンダ モリ氏”のところです。
※森ファミリーはチュークでは言わずと知れた”森小弁”を祖とする巨大日系ファミリー。
【森小弁】1892年にトラックにコプラ貿易のためにくる。
その後、酋長の娘と結婚し、自らも大酋長となる。
1945年にトラックにて亡くなる。”冒険ダン吉”のモデルとなったと言われている。(実際は不明)
現ミクロネシア連邦大統領”エマニュエル モリ氏”は”森小弁氏”のひ孫(日系4世)にあたる。
【リンダ モリ氏】 犬も歩けば・・・・と称したら失礼にあたるかもしれないですが、 ウエノ島では至る所で”森さん”に出くわします。 「小弁の●男の… 」と説明してくれるのですが、 とにかく数が多い!!!なかなか覚えられません。。。。。。 現大統領の妹さんであるリンダさん。 いつもは少々キリっとした顔をして近寄り難い雰囲気をかもしだしている彼女ですが(ごめんなさい) 色々話してくれました。 お父さんの事・・・・おじいちゃんの事・・・・そして自分の事。 「日系4世」 チュークに生まれチュークで育ちながら ”日本人だということを忘れるな”という教育を受けた彼女。 日本人としての誇りを持ちながらチュークで暮らす難しさや複雑さも インタビュー中に垣間見ることができました。 |
【オシエン マサシゲ ベニアン氏】 1927年生まれ86歳 今でも流暢に日本語を操るオシエンさんが生まれた1927年 チュークは日本統治時代でした。 当時は日本名を持つ人が周りにたくさんいたようです。 チューク人の子供のために建てられた公学校に通って日本語を学んだオシエンさんは トラック大空襲(1944年)時はパラオの学校に通ってました。 戦争が終わってからチュークに戻ってきて見ると日本人が居なくなって、 アメリカ人がたくさんいてびっくりしたと・・・。 当時の事を話してくれました。 「日本は好きですか?」の問いに・・・・ 「私は大好きです」とはっきりした口調で答えてくれたオシエンさん。 「でもね、嫌いな人もいます。兵隊さんはいけないこともしたから。 でもね、それは戦争だから。それが戦争だから。しかたありまあせん」と加えました。 戦争という時代を知らず、”過去”の事として習ってきた私にとって 目の前に居るオシエンさんから出てくる生きた言葉の一つ一つが胸に響き なんとも言えない気持ちになりました。 「日本人が居た時代はね・・・すごく良かったんですよ。」 「日本にはね、友達がたくさんいるんですよ。 九州から北海道までたくさん。だからね日本に行ったら泊まるとこにはこまりませんよ。」 力強くいろいろなことを語ってくれるオシエンさん。 オシエンさんから最後にお願いされました。 「天皇陛下には会うことはできますか? 会いたいです。 どうして日本は私達を日本につれていってくれないのですか? みんな日本のために頑張ったのに」 このお願いを私はかなえることはできないけれど、、、、 オシエンさんが時たま持ってきてくれる日本からのお手紙の”代読”はこれからも続けていきたいと思います。 オシエンさん。いつでも観光局に来てください。 |
最後には当時歌っていた歌も披露してくれました♪♪ |
「字も書けるんですよ」 「私みたく日本語を話したり、書いたりできる人はいないですよ」 得意げに語るオシエンさん。 お名前を書いてもらいました。 お見事!!!! |
【チューク州副知事】 なかなかなかなか難しかった州知事へのインタビュー・・・・。 すったもんだありました。(色々ミスコミュニケーションが発生し・・・・。 どうも歯切れが悪くなってしまうのは、、正直思うところはいろいろあるけれど それをぶちまけるのはちょっと控えようかなという思いがございます) 結局は副知事へのインタビューと相成りました。 んーーーー( 一一) 今までお会いしたチューク人達は約束時間も守ってくれて 誠意ある対応をしてくれて、なにやら「チューク人素敵でしょ♪ エッヘン♪」とすごく誇らしかったので、 州政府のすったもんだは正直がっかりしました。 「最後にこれかぁ・・・・・」と少々やるせない気持ちにもなりました。 でも、州知事やほかの部署の方々が一生懸命答えてくれたので 結果オーライ?という事で。 (とは気持ちの面が追い付かないけど、そう思うしかないですね!!) |
【グラッドフィン アイセック氏】 1973年11月13日 チュークで初めてダイビングショップをオープンさせたkimiuo Aisekさんの長男。 現在はチューク随一のリゾートホテル「ブルーラグーンリゾートホテル」とダイビングショップのオーナー。 父親であるキミオさんからはダイビングの仕方はもちろんの事 それ以上に、”沈船に眠る人々へ敬意を払う事”の大切さを教えられたと話してくれました。 日本統治下の1927年に生まれたキミオ アイセックさんは17歳の時 トラック大空襲を目の当たりにしています。彼は健在の時、チュークに訪れる ダイバー達に当時の様子を伝え、沈船ダイビングは”楽しい”ことではなく ”沈船に眠る人々への敬意を払う事である”ということをわかってもらいたかったようです。 2001年にキミオさんが亡くなってからは グラッドフィンさんがその役を引き継いでいます。 「特別なことはしていないけど 毎年2月17日・18日(トラック大空襲)にはダイビングショップのスタッフと共に ラグーンに献花しているんだよ」と話してくれました。 |
普段なかなか聞けないお話をたくさん聞くことができました。
本当によい機会をいただけたと感謝しています。
当たり前の事ですが・・・・
まだまだ知らないことがたくさんあるという事を痛感し
同時に、多くの事を吸収したいという気持ちが
衰えていないことも確認できました。
限られた時間の中ですが、
目も耳も大きく開いて、五感をすべて使って
チュークでの日々を過ごしていきたいと思います。
プロフェッショナルで恰好良いお二人を見ていて、
少々(?)南国ボケしている自分に”喝”を入れることが出来たようにも思います。。。
た・・・ぶ・・・・ん。